信頼が積み上がっていく感覚を掴みかけた頃、
私の中に、もう一つの疑問が残っていました。
「この信頼は、どこで壊れてしまうのか?」
時間をかけて積み上げてきたものが、
ある日ふっと消えてしまう瞬間があるとしたら、
その引き金は一体何なのだろう、と。
信頼が壊れた“音”はしない
信頼は、壊れるときに音を立てません。
PVが急落するわけでも、コメントが荒れるわけでもない。
ただ、静かに、人が来なくなる。
昨日まで確かにあった「気配」が、
今日になると、まるで最初から存在しなかったかのように消えている。
管理画面には何も異常が表示されない。
でも、なぜか空気だけが変わっている。
その違和感は、じわじわと、後になって効いてきます。
原因は、意外なところにあった
しばらくして、私は一つの共通点に気づきました。
信頼が薄れていく直前の記事には、
必ずと言っていいほど、ある特徴があったのです。
それは、
**「正しいことを書いている記事」**でした。
データも揃っている。
論理も破綻していない。
一般論としても、何ひとつ間違っていない。
それなのに、なぜか読後に、冷たいものが残る。
正しさは、人を黙らせる
正論は、相手を納得させます。
でも同時に、相手を黙らせてしまう力も持っています。
「それは正しいですね」
この言葉が出るとき、会話はもう終わっている。
ブログでも同じでした。
・結論が早すぎる
・余白がない
・読者が考える前に、答えが置かれている
そこにあるのは、対話ではなく“説明”です。
読者は反論しない。
でも、続きを読もうともしなくなる。
「教える側」に立った瞬間
特に危険なのは、
自分が少しだけ前に進んだと感じ始めた頃でした。
・昔の自分は間違っていた
・遠回りしている人が見える
・これを早く伝えなければ
そんな善意が、いつの間にか文章を変えていく。
気づかないうちに、
「一緒に考える人」から
「教える人」へと立ち位置がズレていく。
その瞬間、信頼の質が変わります。
読者が求めているのは「正解」ではない
読者が本当に求めているのは、
正しい答えそのものではありません。
・自分の違和感が間違っていなかったと知ること
・言葉にできなかった感覚に、名前がつくこと
・一人じゃないと感じられること
そこに「正解」を置きすぎると、
読者の居場所がなくなってしまう。
回遊が止まるのは、
記事がつまらなくなったからではありません。
自分が、そこに居ていい感じがしなくなったからです。
信頼を壊さないために、私がやめたこと
それから私は、意識的にやめたことがあります。
・結論を急がない
・断言しすぎない
・「〜すべき」を書かない
代わりに、
「私はこう感じた」
「当時はこうだった」
「もしかしたら、あなたも」
そういう曖昧さを、あえて残すようになりました。
正しさを削って、温度を残す。
説得力よりも、並走感を選ぶ。
回遊は「安心」が連れてくる
回遊してくれる読者は、
新しい情報を探しているわけではありません。
「この人の言葉なら、もう少し読んでみてもいい」
そう思える安心感に、引き寄せられている。
だからこそ、
正しすぎる文章は、
知らないうちにその安心を削ってしまう。
信頼は、
正論の積み重ねではなく、
迷いを共有した時間の総量なのだと思います。
次の問いへ
ここまでで、
・PVには質がある
・回遊は結果である
・信頼は蓄積され、正しさで壊れる
という輪郭が、ようやく見えてきました。
では、
その信頼は、どうやって「構造」になるのか?
個人の感覚に頼らず、
ブログ全体として再現性を持たせるには、何が必要なのか。
次は、
「信頼が“点”から“面”へ変わった瞬間」
その話をしようと思います。
スポンサーリンク

コメント