数字が劇的に跳ね上がったわけではありませんでした。
1,200PVというお祭りのような喧騒が去ったあと、数週間が過ぎた頃、静まり返った管理画面の中に、それまでとは違う「質の変化」が混じり始めていることに気づいたのです。
先に変わったのは、数字の大きさではなく、数字の種類でした。
まず動いたのは「目立たない数字」だった
それは、パッと見では見落としてしまいそうな小さな変化でした。
平均滞在時間が、数秒だけ長くなっている。
1人あたりの閲覧記事数が、わずかに底上げされている。
そして、なぜか毎日決まった時間に訪れる「同じ誰か」の気配。
爆発的な拡散力はないけれど、そこに誰かが留まり、じっと言葉を追いかけている。
そんな確かな手応えが、データの行間から立ち上がってきました。
「この人たちは、なぜ私のブログを歩き回ってくれているんだろう」
その理由を、私は改めて自分の書いた記事の中に探し始めました。
1記事の「完成度」を疑う
これまでの私は、「次の記事を読ませること」ばかりに気を取られていました。
でも、ふと思ったのです。
そもそも、今読んでいるその1記事で、読者は満足できているのだろうかと。
読後感が中途半端なまま、無理やり次のリンクを差し出されても、それはただの押し売りに過ぎません。
「続きを読ませたい」と願う前に、まずは「この1記事を読み切って、心から納得してもらえるか」。
そこに、埋めようのない溝があったことに気づかされました。
文章は思想よりも、「姿勢」が先に伝わる
読者は、単なる「情報」だけを求めているわけではないのかもしれません。
むしろ、その情報を差し出す書き手の「姿勢」を、無意識のうちに読み取っている。
正解を教えようと力んでいないか。
上から目線で説明していないか。
アクセスを稼ぎたいという焦りや、認められたいという承認欲求が、文面に滲み出ていないか。
「この記事で何か得てもらえればいい」
その一文を、素直な気持ちで書けていなかった時期が、確かにありました。
言葉を尽くして着飾っても、心のどこかにある下心は、驚くほど透けて見えてしまう。
文章において、何を語るか(思想)よりも先に、どう向き合うか(姿勢)が伝わってしまうのだと、背筋が伸びる思いがしました。
信頼は、設計できない
第3話で感じた「回遊は設計ではなく、結果」という予感は、さらに深い確信へと変わっていきました。
信頼もまた、狙って作ることはできない。
派手なボタンを置くことでも、巧妙に内部リンクを張り巡らせることでも、積み上がるものではありません。
書き手が読者と保とうとする距離感や、誠実であろうとする熱量が、時間をかけて少しずつ形にしていくものです。
「回遊する人」というのは、実は最初から決まっていたのかもしれません。
全員を歩かせる必要なんてなかった。
最初から深く読み込もうとしてくれる、ごく少数の読者。
その人たちが残してくれた足跡こそが、ブログの空気を変えていく「濃度」になっていくのです。
いわば、PVは母数であり、回遊は濃度。
どれだけ薄いスープを大量に配っても、誰の心も満たせない。
でも、たった一杯の濃密なスープを作ることができれば、そこには深い満足と、次を求める渇望が生まれる。
私が作るべきだったのは、配膳の数ではなく、鍋の中身だったのだと思います。
回遊は、信頼が静かに溢れた跡
いつしか私は、回遊という数字を追いかけるのをやめていました。
ただ、目の前の一人とどう向き合うか。
その「信頼」の置き場所だけを意識するようになったのです。
その結果として、私の手元には、静かに溢れ出した「回遊」という名の跡が残るようになりました。
ようやく、出口が見えてきた気がしていました。
でも、信頼とは脆いものです。
積み上げるのには時間がかかるのに、崩れるのは一瞬。
「じゃあ、その“信頼”は、一体どこで壊れてしまうのか?」
その問いが、次の新しい課題として私の前に立ちはだかりました。
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