ブログの通知を開き、届いたコメントに目を通した瞬間。
正直に言えば、胸がざわつき、一瞬だけ心がカチーンと固まるような感覚がありました。
「なんだ、この厳しい言い方は……」
それが、最初の率直な感情でした。
SNSやブログを続けていると、時にトゲのある言葉や、どこか上から目線に感じる言葉に出会うことがあります。
そんな時、感情のまま反応してしまうのは得策ではありません。
私は一度画面を閉じ、少し時間を置きました。
冷たい水を一杯飲み、気持ちを落ち着かせてから、もう一度コメントを読み返してみることにしたのです。
すると、思いがけない学びがありました。
分解その1:冷静になって見えてきた「確かな視点」
感情のフィルターを外し、文字だけを追ってみる。
すると、そこには無視できない有益な情報が含まれていることに気づきました。
私が以前書いた「満員電車で足を組んでいて注意された体験談」に対するコメントだったのですが、その中には、
- 通路に立っている人の視点
- 高齢者や身体の不自由な方への配慮
- 公共の場での動線や安全性
といった、私自身が十分に考えられていなかった視点が含まれていました。
「なるほど。その視点は確かに見落としていたな」
そう思いました。
記事の中でも反省は書いていましたが、それでも見えていなかった部分があったのです。
この点については、素直に感謝できました。
分解その2:それでも消えないモヤモヤ
ところが不思議なことに、学びを受け取った後も、胸の奥のモヤモヤが消えません。
マナーについての指摘は正論です。
新しい気づきもありました。
それなのに、なぜ引っかかるのだろう。
そこで私は、コメントをさらに細かく「分解」してみることにしました。
すると、一つの文章の中に、いくつか異なる要素が混ざっていることが見えてきたのです。
- 学び(客観的な事実や有益な視点)
- 推測(この人は普段からこういう人なのだろう、という想像)
- レッテル貼り(一つの行動から能力や価値観を決めつけること)
- 人格評価(だからこの人はこういう人間だ、という断定)
なるほど。
私の心が反応していた理由はここにありました。
気づき:「指摘」ではなく「決めつけ」に反応していた
私は、自分の至らなさを指摘されたことに腹を立てていたわけではありませんでした。
有益なアドバイスや、新しい視点なら、むしろありがたく受け取りたいと思っています。
私が反応していたのは、その後ろに付いてくる「決めつけ」の部分でした。
一つの行動や、一つの出来事だけを見て、
「きっとこういう人間なのだろう」
「だからこうに違いない」
と評価されると、人はどうしても身構えてしまいます。
もちろん、コメントを書いた方にも、その方なりの経験や考えがあったのでしょう。
しかし同時に、その方が私の日常や背景のすべてを知っているわけではありません。
そう考えた時、私はある結論にたどり着きました。
結論:有益な栄養だけ受け取り、残りはそっと置いておく
今回の件で学んだことは、とてもシンプルです。
「学び」の部分だけを受け取り、「人格評価」まで受け取る必要はない。
果物の皮を剥いて、美味しい果肉だけを食べるように。
魚の骨を丁寧に避けて、身だけを味わうように。
届いた言葉の中に、自分を成長させてくれるものがあるなら、それをありがたく受け取ればいい。
逆に、決めつけやレッテル貼りまで背負い込む必要はありません。
それは私の人生を決めるものではないからです。
聖書の言葉を思い出した
今回の経験を通して、ある聖書の言葉を思い出しました。
「全てのことを確かめなさい。良いものをしっかり守りなさい」
まさに今回の経験そのものだと感じています。
コメントを丸ごと受け入れるのでもなく、丸ごと捨てるのでもない。
そこに含まれる良いものを見極め、しっかり守る。
今回いただいた「周囲への配慮」という気づきは、これからの行動に活かしていきたいと思います。
そして同時に、どんな言葉を受け取った時でも、一度立ち止まって分解し、自分に必要なものだけを受け取れる心の余裕を持ち続けたい。
そんなことを考えさせられた出来事でした。

コメント